ぼやきの場所

使ってるSNSでは気後れする長さの文章置き場。

街は幸福だ。

 母親の影響で子供の頃は観劇が好きだった。現地で鑑賞するほどの年齢ではなかったから母親が物販で買ってきたDVDで見ることがほとんどだったけど、その中でも飛び抜けて好きだった作品がふたつある。ひとつは後藤ひろひとさんの「ダブリンの鐘つきカビ人間」、もうひとつが鴻上さんの「天使は瞳を閉じて」だった。

 どちらも子供向けとは言えない作品で、カビ人間はまだある程度はわかるけど天閉じは年齢を重ねてから見直してその救いようのなさにハマった感じ。当時は単純に歌と設定が好き、程度のものだった。

 

 天使は瞳を閉じて。結構有名な作品だから知っている人は多いと思う。簡単にあらすじをまとめると、大気汚染やらで人間が生きていけない世界を見守る天使が二人。真面目な天使と好奇心旺盛な天使のうち、好奇心旺盛な方が人間の住む街を見つける。そこは薄いドーム状の膜が張られていて、内側は大気汚染の影響を受けていなかった。二人はその街を訪れるんだけど、ちょうど街では結婚式が執り行われていた。幸せそうな人々を見て、好奇心旺盛な天使が人間として生活しようと決意する。真面目な天使は人間として生き始めた仲間と、街で生きる人々を見守るようになっていくんだけど……って話。

 最初のうち天使ふたりはお互いに会話することも、存在を認識することも出来ているんだけど時間が経つにつれ人間として生きている方には天使の姿や声が認識できなくなっていくのよね。で、真面目な天使は仕事として日誌を書いているんだけど、毎回「街は幸福だ。明日にでも僕はここを離れて持ち場に戻ろうと思う」で〆ている。最初のうちはその通り、誰も彼もが幸せそうに笑ってるんだけど少しずつ少しずつ歯車が狂い始めていく。だけど誰もそれを修正することは出来ない。見守るだけの天使も、その歪みに気づいてはいるけど彼には見ていることしか出来ない。見ることすらしていなかったのかもしれない。膨らんで手遅れになるまで、「街は幸福だ」と偽り続けていたのだから。

 破滅が決定的になる瞬間、初めて彼が大声で叫ぶ。「見るな、見るな!」って。天使の羽根が舞って、幻想的な演出をされているそのシーン。まるで羽根で覆い隠して無かったことにしたいという願望が表現されているみたいで。私が1番好きなシーンなんだよね。大人になってから見直したときここまで残酷な描き方もそうそう無いよなって絶望したのよく覚えている。結局そんな願望が叶うはずなんてなくて、一度崩れたものが元に戻るはずもなく何もかもがめちゃくちゃになって話は終わってしまう。

 

 これを見るたび、どうすればこの悲劇は回避できたのかを考えてしまう。どの時点で何をすればこの結末を迎えずに済んだのか。少しずつ少しずつずれていってるのはわかるけど、じゃあどこでそのずれを直すことが出来たのかっていう。登場する人々はみんな、現状を良くしたいと行動していた。だけどそれはある時は裏目に出て、またある時はまったくの無意味な行動になっていた。元を正せばそれこそ、天使が降り立ったきっかけとなる結婚式がすべての元凶のようにも思えてしまう。でもその時は誰がどう見ても幸福なんだよね。この悲劇、この結末は訪れるべくして訪れたのだろうか。仮にもしそうなのだとしたら、あまりにも救いがないじゃないか、って。

 でも現実でもそういうことって多いじゃんね。どこで間違えたんだ、何がいけなかったんだって考えてもわからなかったり、わかったとしても改善の行動が裏目に出てしまったり。天使のように決定的な瞬間まで見て見ぬふりをしてしまったりさ。他の作品でも見かけると結構メンタル持っていかれがちです私は。多分他の人よりその持っていかれ方が派手です。わりとガチめに病むので自分のメンタルが危ういときにはそういう作品避けるようになってます。

 

 他にもいくつか演劇を見たことがあるんだけど、手放しでハッピーエンドだ! って言えたのってシンデレラストーリーくらいなんだよね。天閉じよりハッピーエンドと言えるかなー? って思えるカビ人間と同じ後藤ひろひとさんが手掛けた人間風車とかもえげつない話だし。パコと魔法の絵本見た後に人間風車見ると温度差で死にそうになるよね……同じ人が手掛けたと思いたくないってくらいの落差よ。

 でもそういうストーリーを表現できるのが演劇の良さでもあるんかなとか。倫理的にやばいやつとかも全然あるわけで、演劇ならではの表現方法とかも勿論あるじゃんね。それこそ天閉じだったら羽根が舞い散る演出とかは本当に目を奪われるというか強く惹かれるものがあったし。とか何とか書いてたら久々に見直したくなったけどここ最近呪術廻戦っていうメンタルごりごりに削ってくる漫画読んでるんでそっちが一段落してからじゃないと本格的に病みそうなんで一旦お預けにしようと思います。おわり。

好きと真面目と人生と。

 高校で経験したとある出来事が私に大きな傷跡を残して、それから目をそらすことだけを考えていた大学時代に持っていた信念。一言でいえば、“楽しいことだけしてようよ”だった。誰かと意見がぶつかったとき、誰かが私の心配をしてくれたとき、「そんなことより楽しい話をしよう」とよく言っていた。そうすると大体呆れてくれるか、もしくはその提案に乗って話題を変えることができた。まあ、あくまで大体でしかなくて、中には「じゃあ楽しい話振ってよ」と意地悪をされることもあったけど。

 人と人とは根本的にわかりあえなくて、今でこそわからないを愛せるようになった私だけど当時はその現実の前で肩を落とすだけだった。どれだけ同じ時間を過ごしていたとしても、縁というものは簡単に切れてしまうし、腹を割って話したところで最後は見切りをつけるか、つけられるかのどっちか。別離が必然ならその限られた時間で楽しく過ごす方が余程建設的だと、あの頃の私は信じてた。相互理解に努めたとして、迎える結末が同じならその時間は無駄だろうと。

 

 嫌なことや衝突を避けて楽しいことだけで良いじゃないと思っていた私だけど、その為にどうするべきかを考えるくらいには真剣だった。実りよりも苦しみから逃げることの方が当時の私にとっては大切だった。というより、何よりも優先したいことだった。で、考えた結果は“不誠実”だった。

 何に対しても真面目に向き合えば向き合うほど、楽しくない側面というものは増えていく。その中でも特に苦しい気持ちを抱えることになるのが、自分と向き合う行為だと思う。特に私は誰が見ても立派な社会不適合者で、清々しいほどの落第っぷりを見せてるから拍車がかかる。至らないところを挙げたらそれだけでブログの記事をひとつ書ききれると思う。後ろ向きな性格だから、じゃない。客観的に見て、だ。数少ない救いとして最近は開き直れるようになってきたというところがあるけど、それでも時々現状のきつさに頭を抱える。

 閑話休題。自分の内面、現実、これからのこと、エトセトラ。それらを真面目に見つめれば見つめるほど、つらくなる。逆に言えば相手にしなければ少なくともそれが発生源のつらさはなくなる。そういう道理で出した結果だった。今考えてもあながち間違ってはいないと思える。少なくとも、あの頃の私が出したその答えを否定するだけの材料が今の私の手元には存在しない。

 というわけで何事も適当に不誠実に不真面目に、何でもかんでも人のせいにしてしまえと思ったわけだけど。出来なかったんだよね。無理だった。少なくとも私には向いてない手段なんだ。すべては自分が招いた結果で、その責任を他者に押し付けることは出来なかった。自分の内側から目をそらすことも無理だった。本当や正解がどうであるかは別として、自分なりの理由を見つけ出そうとするのはもう気質なんだと思う。わからないから、という理由ですらそこに至るまでの道筋はあるはずなんだから。

 

 しんどさを受け入れて自分を見つめて気づいたことは沢山ある。そのうちのひとつが、自分にとって好ましいという感情は何よりも価値のあるものなんだってこと。これ、好ましいが重要であって逆の感情は大して意識してないとこが面白いなと。私の内側に存在する指標は、“好き”と“どうでもいい”であって“嫌い”はなかなか見つけられないのよね。勿論きっぱり線が引かれてるわけじゃないから、“好き”の範囲も“どちらかというと”とかよくある質問の回答みたいな感じだし“どうでもいい”のどうでも良さも様々。嫌いだって当然存在はしているんだけど、多分自覚できてない。というより、嫌いとは向き合えないんだと思う。自分の人生破綻しかけても、嫌いなことから逃げることはやめなかったし。

 好きなもの、思い入れ深いもの、それらに対してはとても敏感だなって。それらを否定されたり貶められたりすると、自分の想いまで同じような扱いを受けた感覚になってしまう。抱えていた時間が長ければ長いほど、思い入れが深ければ深いほどそうなりやすい。誰しも好きなものに対してはそういう傾向ってあると思うんだけど、普段あまり嫌いを意識していない私からすればその感情の振れ幅はとても大きく感じてしまう。だから正直、何かを好ましいとはあまり思いたくないというのが本音。

 でもこれも結局、楽しいことだけしていたいと思っていたのと同じで逃避でしかない。向き合って見つめないと気づけない何かが必ずあるはず。そのことを知らないふりできるほど、私の好奇心は腐ってなかったのが運の尽き。絶賛開き直るために迷走しているというのが現状なわけだ。腹を括るにしてもその決断を下す勇気が必要になる。覚悟する覚悟、とか日本語崩壊してそうだけどその表現が適切なんだよなー。

 

 社会や現実から人生破綻するレベルで逃げてんのに、どうしてこういうとこでだけ踏ん張ろうとするのかほとほと疑問だけど私はそういう人間なんだろう。こういうしんどさは我慢できるってだけだ。このしんどさを乗り越えた先で、社会や現実にも活かせる何かが見つかれば最高なんだけどね。でもまあ。無駄にはならないでしょう、無駄にならないと、信じたいもんだ。

 そんなことを考える1月最終日。煙草が切れたのでコンビニ行ってきます。

ひらさわすすむ。

 高校生のときにパレードを聴いてからずっと馬の骨と呼ばれる人種になっている。ヒラワサって大分長いこと活動しているので私の人生半分でもまだまだ新参者として扱われると思う。同級生がパプリカの話をしていて、その子の家でDVDを観たのがきっかけだったのはよく覚えている。他の子が有名な夢のパレードで盛り上がってるなかで、バックに流れる狂気のBGMが頭から離れなかった。

 そこから色々と漁っていくうち、当然のようにあの独特な世界観に脚を囚われてずぶずぶと底なし沼に嵌っていった感じ。入りがパレードで、次聴いたのがBig brotherだったのよ。だもんでアッパーで危ない狂い方してる歌を歌ってる人ってイメージが強かったし、その後に聴いていたのもメジャーなところからだったもんでその印象はどんどん補完されていってた。具体的に言うと夢の島思念公園とか地球ネコとかあのへん。論理空軍も確かかなり最初の頃に聴いてて、あのやべえPVも相まってたよね。白虎野の娘もパレードと同時期に聴いていたはずなのに良さが分かったのはかなり後だったあたり、インパクトの強さが窺えると思う。

 

 でも、ヒラサワってそれだけじゃないんだなって気づいたのは数年経ってからだった。確か庭師KINGかロータスのどっちかを繰り返し聴いてるうちに、な気がする。ある程度年齢を重ねて、歌詞の意味を考え出すようになって。ヒラサワの曲ってストレートなんだけど捻くれてるもんだから、当時の理解力で考えるのは無理だったんだと思う。文法的におかしいの承知の上で、シンプルにストレートな歌ばっか聴いてたから。もしくは完全なワードサラダにも似た歌。

 メンタルの調子を本格的に崩してから色々と考えるようになって、そのときに聴いてはっとしたの。ロータスの歌詞にある大好きなとこ、“変わらない人をたずね、道にまようよりも”って。昔は何気なく聞き流していたその一節がとにかく深く胸に刺さった。びっくりしながら他の曲を聴き返したら、確かに捻くれてるんだけどこれは応援歌だって思える歌が沢山あった。ぶっきらぼうに、こっちを見もせずに背中を押してくれるような感じって言ったら良いのかな。考えてみたらヒラサワはそういう感じのがイメージに合ってるよなって。先述した庭師KINGもそうだし、白虎野の娘の良さに気づいたのもこの頃。あとRIDE THE BLUE LIMBOの最後、“人らしく勤め”も大好き。落ち込んでるときに聴くと今でも大号泣しちゃう。

 どの歌にも共通しているのが、失ったものの尊さを認めながら、それでも前へ進んでいこうって思わせてくれるとこ。自分の人生を歩むなかで、手放さなきゃいけなかった大事なもの。いつの間にか薄れて消えてしまっていた、大切だったはずのもの。それらを思い出させて、改めて抱えさせてくれる。時々それが重荷に感じられることも勿論あるけど、どれも自分という歴史には必要不可欠なものなんだよなって。抱えさせてくれて、踏ん張らせてくれる。どん底まで叩き落ちたい気持ちが過ぎた後、顔を上げる為に必要なやつ。

 ヒラサワ自身がタイとか仏教とかそっちに興味関心が向いていることもあって、そういう雰囲気の歌は確かに多い。それなのにサイバーだとかディストピアだとかそういう単語も彷彿とさせるから頭が混乱するのよね。全然関係ないんだけどヒラサワのウィキペディアみると使用楽器のとこにテスラコイルってあるんだよ。意味分かんないよね、テスラコイルって楽器なんだ……ってなるんだけどライブ見ると確かに楽器なんだよね。

 

 フルヘとか世界タービンとかハァーイとかわけわからんPVとか厳密には名義違うけど2DのPVとか狂気もしくは恐怖を感じさせるやつも確かにある。キャッチーなのはそっちだと思う。私は何度見てもPVは狂気と恐怖を同時に感じます。頭の中どうなってんのっていうか頼むから不思議なクスリ飲んでてくれってなる。何気なく開いた動画で自分の正気疑わなきゃいけなくなるこっちの身にもなってほしい。

 ただ、そういうキャッチーで狂気的というかやべえ宗教みたいな歌だけじゃなくて捻くれた応援歌も私は大好きだなっていうことが言いたかった。終わり。

深夜徘徊が趣味なんですけど

 この時期は本当に寒くて無理です。結論が出て書くことなくなってしまった急行見切り発車終点なし、ミカグラです。

 嘘です。どうして深夜徘徊が好きなのかなーと少し自分を振り返ろうと思い立って記事書いてます。

 

 では早速。元々人生のかなり早い段階から夜型人間として生きてたのよね。子供の頃から寝付きがかなり悪くて、ベッドに潜り込んでから1時間寝れないとか日常茶飯事だった。ちなみに今はそういうお薬を飲まない限り朝まで余裕で考え事してます。スマホの画面が悪いとかいうじゃないですか、あれ見てなくても寝られないんで多分プラセボ的なあれですよ。寝てない私がいうんだから間違いないです。

 徘徊するようになったのもかなり若い頃、それこそまだ子供と言って良い頃からだった。特に行く宛てがあるわけじゃなくて、寝られないことが苦痛だった頃に少し歩いたら疲れて眠れるんじゃないかと幼いながらに思いついたことを実行したのが始まりだっと思う。うちは母も宵っ張りだったから、相談をして近くを散歩するのに着いてきてもらったのは覚えてる。学校のこと、悩み、そういうあれそれを話しながら近くを歩いて、帰って睡眠チャレンジ。大体失敗。

 高校に上がって、通っていた高校が定時制だったこともあってそっから夜型人間化が加速した。友達と学校帰りに寄り道して、さあ帰るぞで終電とか全然あった。バイトに全力出してたから起きるの5時とかなのに帰宅がてっぺん回ってて寝る準備整うのが2時とか普通だった。今考えると信じられないよね、絶対無理。高校生ってすげえ。

 大学もそっから働きだしてからも絶対家に帰らないとストレスで死ぬけど夜更かし自体は得意だった。初めて働いたとこはシフト制だったし帰りが遅いときはやっぱり終電で、駅から実家までが遠くて終バス出ちゃってて絶望したことも片手じゃ足りない。

 

 そんなこんなで太陽が沈んでからの方が元気っていうスタイルが成人前に確立していたんで、三つ子の魂百まで、今もバリバリの夜型人間です。

 当初の目的である、疲れたら眠れるのではないかというのが無理ですねーとわかってからも散歩もとい徘徊は続いていた。習慣というほど頻繁ではないけど、ふと思い立って財布とスマホをポケットに突っ込んで音楽聴きながらひたすら歩く。体力のペース配分間違えて思ったより歩いちゃって帰りきつくなることもよくある。

 夜は良い。まず当然だけど明るくない。眩しい目が痛いみたいなこと起きない。そして静か。音が無いということじゃなくて、気配がない。人の気配は勿論、他の気配もない。暗いから余計なものが見えない。見たいものを見ようとしなければ何も見えない。その情報量の少なさがとても好ましい。普段よく通ってる道ですら、本当にそこなのかわからない程に情報が減る。自分がどこにいるのか分からなくなっていくのが好き。

 

 私は知らない物事に惹かれやすい。降りたことのない駅、行ったことのない場所、そういった場所に突然向かったりする。出不精かつ予定というものが大嫌いなので、思い立たないと行かないけど。深夜の町並みというものは手軽にそれを味わえるように思う。何度も同じ道を歩いてしまえば、結局それは見知ったものになってしまうからいつもそう上手くいくとは言えないのが悲しい。

 生粋のインドア、引きこもり至上主義なんだけど刺激に飢えてて定期的に未知を摂取しないと生きていけないくそったれが私です。嫌いな熟語のひとつに日常があります。別に自分が変わってる必要はなくて、見ている景色だったり身を置く環境に変化が欲しいんだよね。昨日と同じ今日なんて無い、なんてよく言うけど大きなカテゴリーで分けたら大体同じになるじゃん。起きて支度して出勤して仕事して、帰って寝る。その大筋は変わらない。飽きてきちゃうんだよね。でもそうそう大きな変化なんてものは起こらなくて、息が詰まってくると徘徊しだす。ひたすら歩いて、疲れたらコンビニ寄ってコーヒー飲みながら備え付けのベンチで一服して、その繰り返し。そうこうしているうちに空が段々明るくなってきて、ああ帰る頃合いだなって帰路につく。

 擬似的なリセット行為なんだと思う。自分を取り巻く日常に大した変化を起こせない私が、なんとかして非日常を感じたくてする行為。小さな頃からの習慣でも、成長していくにつれてその意味や目的というものは変わっていくわけで。それでもこの年齢まで続いてるってことは、何かしら自分に合っていた要素があったんじゃろなって。

 

 本当はめちゃくちゃ徘徊というか最早大冒険がしたくて仕方ないのにこのくそ寒い時期はできなくてフラストレーション溜まってます。早くあったかくなあれ。