ぼやきの場所

使ってるSNSでは気後れする長さの文章置き場。

イマジナリー妹ちゃん(15歳のすがた)

 ぼくは長女で、下に双子の弟と妹がいる。んで、対人関係やら何やらで悩みを抱えているときに登場するのがこの妹の方。普段から仲良しというか最早シスコンに片足を突っ込んでいるぼくだけど、このイマジナリー妹ちゃんが15歳なのにはちゃんとした理由がある。断じてその頃が可愛かったからという理由ではありません。妹ちゃんはあの頃だろうが今だろうが可愛いことに変わりはありません。

 

 さてそれでは一体どうして15歳の妹ちゃんが登場するのか。これはぼくの人生における暗黒期が18歳の頃だったということに起因する。大学受験を夏で終えたぼくが送ったその後の高校生活は一言で形容するならば“地獄”だった。その頃のトラウマは多々あるし今のぼくにも影響をがっつり残してくれやがってるんだけど、大きなものとして「待ち人は来ず」的なやつがあった。

 小さな頃から憧れていた教職についている、身近で年の近い大人という立場にいた教師がひとりいた。ぼくが高校二年生の頃に赴任してきた国語の先生だった。馬鹿みたいな時間、話をした。悩み事やらを相談して考えを聞いてもらって、そんな風にして授業の空き時間や他の生徒たちが給食に行ってる間の時間を過ごしていた。そういう風に話をするようになったきっかけもよく覚えている。当時のぼくにとって、何よりも誰よりも信頼していて尊敬していて、頼りにしていた大人だった。

 大学受験が終わってからも、変わらずいつも話していた空き教室で話ができるものだと思っていた。けれど、来なかった。ずっとずっと待っていたけど、来なかった。その理由は24歳になった頃、覚悟を決めて連絡を取り話をしにいくまでわからないままだった。当然18歳の私は理由なんかわからなかったし、待っていればいつか来てくれるはずと信じていた。そう信じるくらいには先生を信頼していた。でも、来なかった。

 

 他のあらゆることと同じようにその事実は当時のぼくを苛んだし、だからぼくは家に帰っては姉妹部屋で号泣するという毎日を送っていた。高校受験のために勉強していた妹ちゃんからすれば、寝る前の勉強時間に姉が同じ部屋で爆泣きしてるんだから良い迷惑だったと思う。でもあの子は、ペンを動かす手を止めて私の話に耳を傾けてくれた。

 何もかもを妹ちゃんにぶちまけた気がする。その中には当然、先生のことも含まれていた。泣きながら話すわたしに対して、それまで黙って聞いていた妹ちゃんが言ったこと。それが今でも悩んだときにあの子がその頃の姿を取る理由。

 

「これまで導いてくれてたのは事実かもしれないけど、今は違うんでしょ? もう違うんだよ、ねーちゃんが辛くても来てくれない程度の人。そこまでして待つ理由は何? 慕う理由なんかないんじゃないの、もう」

 

 あのときの私にとっては死刑宣告にも似ていた。頭をよぎることはあれど、見てみぬふりしていた現実を突きつけられたわけだから更に泣いた。でもひとしきり泣いた後は驚くほど執着というものはなくなっていた。誰よりも信頼していたはずの先生は、まあ、そうだよなで終わらせてしまえるほどの存在に成り下がっていた。

 あれ以降、ぼくが何かに執着すること自体あまり起こらないことにはなっていたけれど、珍しく執着して更にそれが原因で悩んだりすることがあると妹ちゃんがその言葉を投げかけてくる。好きだったかもしれない、大切だったかもしれない。でも今はもうその好きだった頃のものじゃない、変わってしまっている。それを目にして苦しんでるのに、執着する理由は何? って聞いてくる。そしてぼくは大抵その問いに答えられないし、それどころかやっぱり「まあ、そうだよな」と終わらせてしまう。

 そもそも好きも執着も、ぼく個人としては嫌いと言って差し支えないからとてもありがたい存在であることは確かなのよね。その問いにしっかりとした答えを返すことが出来ないのであれば、彼女の言葉が正論として受け入れられるべきものであると思うので。そんなこんなで私は数々の“好き”や“大切”といった感情とその矛先を無価値に貶めてきた。今回も同じような終わりを迎えるんだと思う。寂しいと思わないはずがないけど、それでもと言えるような気持ちの強さは持ち合わせていない。

 

 年齢を重ねるにつれて、更に執着から遠ざかっていっている。今はまだそれを寂しいと思う心が残ってるけど、きっとそれすらも忘れていくんだと思う。そんで、忘れたことすら忘れていくのさ。

 秋風や、忘れてならぬ、名を忘れ。忘却と別離、色々なものを落として捨てていくのが人生なのかもしれないね。

人間関係は趣味

 私にとっての人間関係ってどんなものと訊かれたことがある。そのときの返答が今回の記事タイトルです、ここから頑張って話を膨らませていこうと思います。できるかちょっと自信ないけど多分なんとかなる。

 

 で、こんなこと言うと関わってくれている人たちに凄く失礼な感じしちゃうから先に弁明しておく。軽く見ているわけじゃなくて、スタンスの話です。人付き合いに苦手意識を持っているというか、関わり方が下手くそである自覚はあるけど人と関わること自体は嫌いじゃないしむしろ多分好き。過激派になるレベルの好きまでいってないから、私の中では比較的安全な好きという感情でいられている、はず。

 さてじゃあ人間関係は趣味って何よという本題なんだけど、そもそも私が理想とする私のあり方っていうのがありまして。いてもいなくてもいい、なんだよね。いないと困るわけでもないし、いると邪魔ってわけでもない。歓迎はされないけど拒絶もされず、ふんわりと許容されるみたいな。そんな感じだから自然と特定の人間関係に重きを置かないような動き方、生き方になっていく。重きを置かないというか、依存しないという表現の方が適切かもね。自分も周りも都合というものがあるし気分にも諸々影響されることもあるじゃない。今日はひとりで色々やりたいことがあるなー、とか。なんかわいわい騒ぎたい気分かも、とか。真面目な話をして見識を広げたいな、とか。でもそれって別に、出来なくても死ぬわけじゃない。生活が出来なくなるわけでもない。好きだから、そうしたいと思うからって理由に1番似ているのは何かなと探したとき、ああこれ趣味に似てるんだとね。

 そうやって考えたとき、人間関係の重要さに気づいたんですよ。私にとって他の趣味というものは“それが無くても生きてはいけるけど、あった方が楽しく過ごせる”ものだからね。だから個人的には「あなたがいないと困る」より「あなたがいなくても困らないけど、あなたといたいからいる」の方が嬉しいと感じるの。関係あるのか微妙だけど、ちいかわのうさぎがそんなスタンスだってうさぎ担当してる声優さんが言ってたなと今思い出した。あの子はひとりでも生きていけるけど、ふたりといると楽しいから一緒にいるんじゃないかってさ。あーわかるかもってなったからそれに近い感じなんだろうね。

 

 友達とか恋人とかそういうのも結局のところ、自分が持ってるこうしたいという欲求に対応した誰かのことを指すんじゃないかなーなんて推測してみたりね。いろんなスタイルが存在するのも、それぞれが求めるものが違うんだから当然と言えば当然なのかも。例えば友達とは馬鹿騒ぎしたいし、真面目な話をしたいし、一緒に遊びたいっていうんならそれらが叶えられる人たちをそう呼ぶようになる的なさ。貴方が恋人に求めるものは何? みたいな質問たまに見かけるじゃん、あれと似たような感じ。そんな風に結論づけると昨今あれこれ言われてるあれそれも、まあそうなるよね前提は人によって違うんだからってなるし悪くはない仮説じゃないかと自負してる。

 本当は昨日お風呂でぼーっと内省しているときに考えついたことだったんだけど、すっかり忘れてた。運よく思い出せたからひとまず記録としてつけておこうね。

 

 人間関係ってなんだろうね。

何度目だよ「無垢の祈り」について書くの

 なんか少し久しぶりに日記をつけるような気がする。書きなぐったものを見返すことに対する羞恥心が人より強い自覚があるので、ブログを見返すことがない。ということで、今書いているこの記事が何日ぶりの更新になるかもわかっていない。ついでに白状すると書くことも特に決まってない。候補はいくつかあるんだけどひとつに絞りきれていない。例によって見切り発車である。

 

 仕方がないので好きな小説の話でもしようと思う。私は基本的にサスペンスだとかミステリーだとかそういうジャンルを好むけど、別にそれしか読まないわけではない。文字であればホラーもグロも割といける。ということで、平山夢明の小説について。有名所だとダイナーとかかしらね。その著作の中に「独白するユニバーサル横メルカトル」っていう短編集がある。表紙がどことなくヒラサワ味あるこの短編集、ぺけで何回か話題に出したことがあるんです。大好きなんですよね。

 そもそもこの本を手に取ったきっかけが、近所の図書館で表紙を見かけたときにタイトル諸々含めて馬の骨感性に引っかかったからでひとまず借りて読んでみたっていう。他の作品を知ってる人ならわかる通り、ナンセンスやら不条理やらという単語がよく似合うお話が多かった。あとは全編通してグロい。さらっとグロ描写が出てくるから段々感覚が麻痺してくる感じ。

 んで、そのなかでも異彩を放っているのが映画化もされた「無垢の祈り」で。私この話本当に本当に大好きで、この短編をいつでも読みたいが為に文庫版を買ったくらい。さらっとあらすじを紹介すると、母親の再婚相手から虐待されて学校ではいじめられて、母親はやばい宗教にハマってる女の子が街を騒がす連続殺人鬼に会おうとする話。境遇は悲惨そのものだけど女の子はめちゃくちゃ負けん気の強い子で、いじめられたらやり返すし母親がやばくても無視してカップ麺用意するような子。その子がとあるきっかけで連続殺人鬼に会うため行動を起こすんだけど、この理由がいじらしい。会って伝えたいことが「がんばってください」なんだよ? きっかけがきっかけだし相手が相手なので自分を取り巻く環境を壊してくれるような想像をしたりも勿論する。それでも伝えたいと思うことがそれ。ヒーローのような存在になっていて、心の支えだったんだなって読んでるこっちにもわかるのですよ。

 で、そのラストが本当に素晴らしくてね。会いたいと希う人が人殺しという時点で所謂ハッピーエンドを迎えるのは難しいと思うじゃない。でもこの話の結末はハッピーエンドだと私は思うの。めでたしめでたし、の先がどうなるかはわからない。けれど少なくとも、めでたしめでたしは迎える。そこから先の未来はどう考えても暗い。でも女の子が今いる場所も明るいとは言えない。だからこそ抱いた無垢の祈りがカタルシスを生むというか、余韻が凄くて読後感最高。色々と好きな小説はあるけど、ここまで心を持っていかれた小説はとても少ないから余計に思い入れが強くなってしまってる自覚はある。

 

 「無垢の祈り」は映画化もされているんだけど、私は断然小説派です。映像化するのがそもそも難しい話だから映画も凄いとは思う。でもお話が最後の最後で原作と分岐するんだよね。この分岐が肝というか、好みの分かれる部分だと思う。ラストのカタルシスと暗闇が続くハッピーエンドで、陰鬱な読後感と爽やかな余韻が好きだったので小説版が好きな人だと映画の改変はきつく感じると思う。逆にそういうの一切必要ないです暗闇でバッドエンド迎えて徹頭徹尾救われないお話大好きですみたいな人からすると小説版は少し物足りないだろうし、映画版の方が好ましく感じるかも。私は断然小説派です(2回目)

 ネタバレてんこ盛りにして好きなところを事細やかに挙げ連ねたいところではあるんだけど、2006年刊行とまだそこまで古い本でもないし自重してる。実は書き連ねたくてうずうずしてる。読んだ人の感想とかひたすら漁ってわかるわかるしてるんだけど、原作が短編集なのでどうしてもすっきり纏められてしまっていたり映画版の方を主に扱っていたりで不完全燃焼を起こしてるのが現状です。感想語り合いたい欲がすごい。なるべく多くの人に読んでほしい気持ちもすごい。

 

 この短編集、他に収録されているお話も全部好きなんだけど「無垢の祈り」が特別すぎるんだよね。メンタルどん底に叩き落されるって意味では「ニコチンと少年」も素晴らしいし、知的なやべえ奴が登場する「Ωの晩餐」「エッグマン」「怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男」も好き。当然だけどそれぞれ違う展開と結末が用意されてるから飽きないよ。この三作の中だったら「エッグマン」の結末が好きです。ディストピアものが読めるなら「オペラントの肖像」も良いと思う。私は好き。

 興味があったら是非読んでみてほしい。そして読んだあかつきには教えてほしい。多分凄い勢いで私が食いつくから。

 

おしまい。

寛大になりたいと思う

 何に対して? それはもう色々なものに対して。

 人の数だけ価値観が存在していて、そのどれもが尊重されるべき大切なものであるというある種の信念のようなものを持っている。でも実際に行動へ反映できているかと振り返ると正直沈黙してしまうのが今の私。特に好きな物事や人に対しては過激な反応を取りがちで、直したい自分の欠点として自覚している。日頃そこまで物事に興味を持てない人間だからこそ、琴線に触れたものへの思い入れが強くなってその分頑固になってしまう。

 強い感情を持つのは苦手。そこに正負のベクトルは関係なくて、とにかく何に対しても執着したくない。執着するとどうしても心が狭くなって、寛容でいられなくなる。他の価値観を尊重できなくなる。それが嫌なんだよね。だから他者が関わる物事に対して、深く踏み入れないように努めているところがある。理解を深めて、共感して感情移入すればするほど強い感情を抱くようになってしまうから。それが好きでも嫌いでも、そうで在りたい自分から遠ざかってしまう要因になる。

 とはいえ私も人間なので意識したところで結局感情を排することは不可能で、惹かれる物事や人は存在してしまう。なのでそういうものに対して、自分だけで完結させるようにしている。好きも嫌いも、自分の感情だけ見つめてそれ以外に意識を向けないようにって感じ。意識しなければ気にならない、という理屈ですね。これ結構私には合っている対処法のようで、平和に穏やかに好きなものを好きでいられる。自分の不寛容さを嫌悪することも起きないし、嫌いなものは見ないでいられる。

 

 で、問題は意識が向いてしまった場合。事故みたいな感じで起きることがある。例えばFF14FF10のネタを見てしまうとか、そういう出来事。当時の発狂具合は本当に凄まじかったと思う。文字通り怒り狂ってるとしか表現できなかった。妹ちゃんにブチギレまくった怪文書を送りつけるし、今後FF10にまつわる特定のネタが登場したときには引退してもう金輪際二度とプレイしないと高らかに宣言するしで大変だった。

 私にとってFF10というゲームってそれはそれは大事なもののひとつで大好きなゲームなんだけども、FF14だって嫌いというわけではない。もっと言えば別に登場させたネタも悪意がある使い方はされていない。作品ごとにバハムートもシドも設定から何から変わってるようなゲームで、同じことをされただけ。なのにこの有様。私の不寛容さが垣間みえると思う。そして、何故私が好きという感情すら敬遠するのかも、何となくわかるんじゃないかな。

 

 寛大と無関心は表裏一体のものだと思っている。ある程度の距離がないと許容できる範囲は確保できない。そして私は距離を取るのが絶望的に下手なのだ。好きになってしまったもの、執着してしまったものに対して深入りしすぎてしまう。それに応じて許容範囲は狭くなる。結果、最初に書いた通り人の数だけ存在する価値観はその全てが等しく大切なものなのに他者を尊重することができなくなる。それが好ましくないということがわからないほど、馬鹿にはなれない。

 無関心でありたい。執着したくないし、好きにも嫌いにもなりたくない。どっちでも良いとかどうでも良いみたいなスタンスでいたい。だけど上手くいかない。どうすれば良いんだろうと考えるために文章として形にしてみてるけど、良い方法が思いつかない。答えが出なくて、少し苦しい。ので、今日はもう考えるのやめようと思う。まとまりのない文章になっちゃったけど、後日改めて考えるときの材料になるかもしれないのでこのまま残しておくことにする。

お天気壊れてる?

 『serial experiments lain』というメディアミックス作品がある。ここのところyoutubeで配信者がよく選んでいるゲームも、その作品のひとつで懐かしい気持ちになったからこうして記事のテーマにしてみた。

 1997年だったかな? そのあたりの作品って結構挑戦してるなーっていう作品が多い傾向があると思う。そしてこの『lain』もそんな作品。当時よりもコンピューターというものが人々の身近にあって、誰しもが自分の端末を持っている。今みたいな感じだね。その端末で仮想のネットワーク空間であるワイヤードにアクセスして、情報やら何やらを得ているっていう。今の時代で考えてみれば結構想像しやすい世界が舞台。

 『lain』はアニメとゲーム、それから雑誌だったかな? で展開されていて、アニメはそこそこ見やすいと思う。難解と言われたらそうだけど、少なくとも見ていて「これは駄目だ」とはならない。問題はゲームの方で、よく言われる「心が弱っているときにやると引きずられる」はあながち冗談でもないんだよね。今回メインでテーマにしたいのはゲームの方。

 

 共通して主人公を務める岩倉玲音は、それぞれで設定が微妙に異なっている。ゲーム版では開始時点で小学生。幻覚や幻聴に悩まされていて、それを何とかする為に病院でカウンセリングを受けている。ゲームの内容はデータ化されたカウンセリングを聞くこと、玲音の日記、玲音の主治医であるカウンセラーの日記、それぞれを聞くこと、だけ。キャラクターを操作したりアイテムを集めたりっていうゲームではない。

 それぞれのデータは断片化していて、時系列もばらばら。ある記録では元気そうにカウンセリングしているのに、次の記録ではなんかやけに疲れていたり。その間に何があったかを、日記や報告書で確認して余白を埋めていく……っていうのが主な遊び方なんだと思う。

 ここまで書いて、少し変わったゲームだとは思うけど引きずられるほどのもんじゃなくない? って思った過去の自分がよぎる。実際ただ記録をなぞるだけならそこまで怖いもんでもない。怖くなるのは、玲音の言っていたことを考えるから。

 

 『lain』という作品を通して、玲音はコンピューター絡みの才能がすごい子として描かれている。勿論ゲーム版でもその設定は健在で、元々賢い子だというのもあって恐ろしい勢いで知識を吸収してく。そしてゲーム版ではITの他に、メンタルヘルスも取り扱っている。自己、自我への言及も少ない頻度ではない。『lain』で有名な台詞「記憶は記録」というのも、ゲーム版ではしっかり掘り下げられている。

 ゲームを進めていくうち、知識を深めていくうち、玲音は答えを出す。彼女にとってすべてはただの情報、データでしかなくなる。この日時にこの場所でこういう行動をした、楽しかった。こんな風に記憶と記録が指し示すものは同じ内容だと。で、あるならば記憶によって形作られる人格だって同じことが言える。どういった人生を今まで生きてきたのか、物事に対してどんな考え方をするのか。そしてどんな風にそれらを伝えようとするのか。そういったデータをもとに作られたAIはもう一人の自分と言って差し支えないのではないか。AIだけじゃない、その“情報”によって形作られるものはすべて、自分ではないのだろうか。これが玲音の出した答え。

 そして作中で玲音は自分の考えを実行に移す。コンピュータに“自分”を作り、そこからプレイヤーへ語りかけてくるようになる。でも怖いのはここじゃない。語りかけてくることじゃない。先述した、その“情報”によって形作られるものはすべて、自分というところなんだ。プレイヤーはゲームを通して玲音を知っていく。何歳の頃にカウンセリングへ通い出したか、そこで誰とどんな話をしたか。日記に残されていた思いや考え、それらが情報として頭に残っている。と、なると。玲音の考えに拠って考えると。私達の頭の中にも、玲音がいる、と言えるんじゃなかろうか。

 彼女が偏在するというのは、ネットワークや現実において人は様々な“私”を使い分けることへの暗示という見方の他に、彼女が私達の頭の中に情報として偏在しているのだという見方もできてしまう。意図せずに、自分の頭の中に玲音がいるの、すごく怖い。

 

 でも実際のところ、これを強く否定する反論を私は持っていない。私が誰かを思うとき、私は私の中に浮かんだその人を見ている。本人が目の前にいなくても、その人の話をすることができる。それはひとえに私の頭の中にその人が存在するから。

 そして玲音の行動がどんなものだったか、思い出す。肉体を捨てたんだよ彼女は。ハードを変えた、とも形容できるね。自分の頭の中にいる誰かさんが、肉体を持って生きているか、実体を持って存在しているか、そんなことは関係ないってこと。もっといえば、歴史上の偉人も創作に登場する人物も会社で席が隣なあの人も、家族も友人も、自分の頭の中に存在しているという意味ではすべて同じで。記録された情報を引き出してるだけで。実際に会って何をしているかといえば、その記録を増やしているだけで。

 ね? 下手すると引きずられかねないでしょ。ああそれなら肉体なんか要らないなって。誰かの中で、記録として存在し続けているなら別に良いかな、って。人によってはなってもおかしくないと思う。

 

 さてじゃあ私は何の影響も受けていないかと言われると、そんなはずがないよねー。感受性豊かな思春期と言われる年頃にこんな思想と出会ってしまったら、大なり小なり影響されるのも致し方なし。以前推しと故人が同じものと記録した通り、私にとって自分以外はすべて物語の登場人物と似たような存在だと思っている。その人生に何かしらの影響を与えることはあれど、変えることはできない。私には見ていることしかできない。昨日の天使みたいにね。既に死んでいるとか、現実に存在しないとかはあんまり関係ないんだよ。そうでなくたって何も変わらないのだから。

 繰り返しになるけど、このゲームは引きずられる。それでも配信やらで実際に物語を目にすることができるならば、見ておくと良いとも思う。哲学的だし解決されない謎もあるけど、“自分と他人”について考えるフックにはなると思うからね。

 そんなこんなな私でした。今度はさよならを教えてあたりをテーマにしても良いかもねー。