ぼやきの場所

使ってるSNSでは気後れする長さの文章置き場。

深夜徘徊が趣味なんですけど

 この時期は本当に寒くて無理です。結論が出て書くことなくなってしまった急行見切り発車終点なし、ミカグラです。

 嘘です。どうして深夜徘徊が好きなのかなーと少し自分を振り返ろうと思い立って記事書いてます。

 

 では早速。元々人生のかなり早い段階から夜型人間として生きてたのよね。子供の頃から寝付きがかなり悪くて、ベッドに潜り込んでから1時間寝れないとか日常茶飯事だった。ちなみに今はそういうお薬を飲まない限り朝まで余裕で考え事してます。スマホの画面が悪いとかいうじゃないですか、あれ見てなくても寝られないんで多分プラセボ的なあれですよ。寝てない私がいうんだから間違いないです。

 徘徊するようになったのもかなり若い頃、それこそまだ子供と言って良い頃からだった。特に行く宛てがあるわけじゃなくて、寝られないことが苦痛だった頃に少し歩いたら疲れて眠れるんじゃないかと幼いながらに思いついたことを実行したのが始まりだっと思う。うちは母も宵っ張りだったから、相談をして近くを散歩するのに着いてきてもらったのは覚えてる。学校のこと、悩み、そういうあれそれを話しながら近くを歩いて、帰って睡眠チャレンジ。大体失敗。

 高校に上がって、通っていた高校が定時制だったこともあってそっから夜型人間化が加速した。友達と学校帰りに寄り道して、さあ帰るぞで終電とか全然あった。バイトに全力出してたから起きるの5時とかなのに帰宅がてっぺん回ってて寝る準備整うのが2時とか普通だった。今考えると信じられないよね、絶対無理。高校生ってすげえ。

 大学もそっから働きだしてからも絶対家に帰らないとストレスで死ぬけど夜更かし自体は得意だった。初めて働いたとこはシフト制だったし帰りが遅いときはやっぱり終電で、駅から実家までが遠くて終バス出ちゃってて絶望したことも片手じゃ足りない。

 

 そんなこんなで太陽が沈んでからの方が元気っていうスタイルが成人前に確立していたんで、三つ子の魂百まで、今もバリバリの夜型人間です。

 当初の目的である、疲れたら眠れるのではないかというのが無理ですねーとわかってからも散歩もとい徘徊は続いていた。習慣というほど頻繁ではないけど、ふと思い立って財布とスマホをポケットに突っ込んで音楽聴きながらひたすら歩く。体力のペース配分間違えて思ったより歩いちゃって帰りきつくなることもよくある。

 夜は良い。まず当然だけど明るくない。眩しい目が痛いみたいなこと起きない。そして静か。音が無いということじゃなくて、気配がない。人の気配は勿論、他の気配もない。暗いから余計なものが見えない。見たいものを見ようとしなければ何も見えない。その情報量の少なさがとても好ましい。普段よく通ってる道ですら、本当にそこなのかわからない程に情報が減る。自分がどこにいるのか分からなくなっていくのが好き。

 

 私は知らない物事に惹かれやすい。降りたことのない駅、行ったことのない場所、そういった場所に突然向かったりする。出不精かつ予定というものが大嫌いなので、思い立たないと行かないけど。深夜の町並みというものは手軽にそれを味わえるように思う。何度も同じ道を歩いてしまえば、結局それは見知ったものになってしまうからいつもそう上手くいくとは言えないのが悲しい。

 生粋のインドア、引きこもり至上主義なんだけど刺激に飢えてて定期的に未知を摂取しないと生きていけないくそったれが私です。嫌いな熟語のひとつに日常があります。別に自分が変わってる必要はなくて、見ている景色だったり身を置く環境に変化が欲しいんだよね。昨日と同じ今日なんて無い、なんてよく言うけど大きなカテゴリーで分けたら大体同じになるじゃん。起きて支度して出勤して仕事して、帰って寝る。その大筋は変わらない。飽きてきちゃうんだよね。でもそうそう大きな変化なんてものは起こらなくて、息が詰まってくると徘徊しだす。ひたすら歩いて、疲れたらコンビニ寄ってコーヒー飲みながら備え付けのベンチで一服して、その繰り返し。そうこうしているうちに空が段々明るくなってきて、ああ帰る頃合いだなって帰路につく。

 擬似的なリセット行為なんだと思う。自分を取り巻く日常に大した変化を起こせない私が、なんとかして非日常を感じたくてする行為。小さな頃からの習慣でも、成長していくにつれてその意味や目的というものは変わっていくわけで。それでもこの年齢まで続いてるってことは、何かしら自分に合っていた要素があったんじゃろなって。

 

 本当はめちゃくちゃ徘徊というか最早大冒険がしたくて仕方ないのにこのくそ寒い時期はできなくてフラストレーション溜まってます。早くあったかくなあれ。