ぼやきの場所

使ってるSNSでは気後れする長さの文章置き場。

好きと真面目と人生と。

 高校で経験したとある出来事が私に大きな傷跡を残して、それから目をそらすことだけを考えていた大学時代に持っていた信念。一言でいえば、“楽しいことだけしてようよ”だった。誰かと意見がぶつかったとき、誰かが私の心配をしてくれたとき、「そんなことより楽しい話をしよう」とよく言っていた。そうすると大体呆れてくれるか、もしくはその提案に乗って話題を変えることができた。まあ、あくまで大体でしかなくて、中には「じゃあ楽しい話振ってよ」と意地悪をされることもあったけど。

 人と人とは根本的にわかりあえなくて、今でこそわからないを愛せるようになった私だけど当時はその現実の前で肩を落とすだけだった。どれだけ同じ時間を過ごしていたとしても、縁というものは簡単に切れてしまうし、腹を割って話したところで最後は見切りをつけるか、つけられるかのどっちか。別離が必然ならその限られた時間で楽しく過ごす方が余程建設的だと、あの頃の私は信じてた。相互理解に努めたとして、迎える結末が同じならその時間は無駄だろうと。

 

 嫌なことや衝突を避けて楽しいことだけで良いじゃないと思っていた私だけど、その為にどうするべきかを考えるくらいには真剣だった。実りよりも苦しみから逃げることの方が当時の私にとっては大切だった。というより、何よりも優先したいことだった。で、考えた結果は“不誠実”だった。

 何に対しても真面目に向き合えば向き合うほど、楽しくない側面というものは増えていく。その中でも特に苦しい気持ちを抱えることになるのが、自分と向き合う行為だと思う。特に私は誰が見ても立派な社会不適合者で、清々しいほどの落第っぷりを見せてるから拍車がかかる。至らないところを挙げたらそれだけでブログの記事をひとつ書ききれると思う。後ろ向きな性格だから、じゃない。客観的に見て、だ。数少ない救いとして最近は開き直れるようになってきたというところがあるけど、それでも時々現状のきつさに頭を抱える。

 閑話休題。自分の内面、現実、これからのこと、エトセトラ。それらを真面目に見つめれば見つめるほど、つらくなる。逆に言えば相手にしなければ少なくともそれが発生源のつらさはなくなる。そういう道理で出した結果だった。今考えてもあながち間違ってはいないと思える。少なくとも、あの頃の私が出したその答えを否定するだけの材料が今の私の手元には存在しない。

 というわけで何事も適当に不誠実に不真面目に、何でもかんでも人のせいにしてしまえと思ったわけだけど。出来なかったんだよね。無理だった。少なくとも私には向いてない手段なんだ。すべては自分が招いた結果で、その責任を他者に押し付けることは出来なかった。自分の内側から目をそらすことも無理だった。本当や正解がどうであるかは別として、自分なりの理由を見つけ出そうとするのはもう気質なんだと思う。わからないから、という理由ですらそこに至るまでの道筋はあるはずなんだから。

 

 しんどさを受け入れて自分を見つめて気づいたことは沢山ある。そのうちのひとつが、自分にとって好ましいという感情は何よりも価値のあるものなんだってこと。これ、好ましいが重要であって逆の感情は大して意識してないとこが面白いなと。私の内側に存在する指標は、“好き”と“どうでもいい”であって“嫌い”はなかなか見つけられないのよね。勿論きっぱり線が引かれてるわけじゃないから、“好き”の範囲も“どちらかというと”とかよくある質問の回答みたいな感じだし“どうでもいい”のどうでも良さも様々。嫌いだって当然存在はしているんだけど、多分自覚できてない。というより、嫌いとは向き合えないんだと思う。自分の人生破綻しかけても、嫌いなことから逃げることはやめなかったし。

 好きなもの、思い入れ深いもの、それらに対してはとても敏感だなって。それらを否定されたり貶められたりすると、自分の想いまで同じような扱いを受けた感覚になってしまう。抱えていた時間が長ければ長いほど、思い入れが深ければ深いほどそうなりやすい。誰しも好きなものに対してはそういう傾向ってあると思うんだけど、普段あまり嫌いを意識していない私からすればその感情の振れ幅はとても大きく感じてしまう。だから正直、何かを好ましいとはあまり思いたくないというのが本音。

 でもこれも結局、楽しいことだけしていたいと思っていたのと同じで逃避でしかない。向き合って見つめないと気づけない何かが必ずあるはず。そのことを知らないふりできるほど、私の好奇心は腐ってなかったのが運の尽き。絶賛開き直るために迷走しているというのが現状なわけだ。腹を括るにしてもその決断を下す勇気が必要になる。覚悟する覚悟、とか日本語崩壊してそうだけどその表現が適切なんだよなー。

 

 社会や現実から人生破綻するレベルで逃げてんのに、どうしてこういうとこでだけ踏ん張ろうとするのかほとほと疑問だけど私はそういう人間なんだろう。こういうしんどさは我慢できるってだけだ。このしんどさを乗り越えた先で、社会や現実にも活かせる何かが見つかれば最高なんだけどね。でもまあ。無駄にはならないでしょう、無駄にならないと、信じたいもんだ。

 そんなことを考える1月最終日。煙草が切れたのでコンビニ行ってきます。