ぼやきの場所

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お天気壊れてる?

 『serial experiments lain』というメディアミックス作品がある。ここのところyoutubeで配信者がよく選んでいるゲームも、その作品のひとつで懐かしい気持ちになったからこうして記事のテーマにしてみた。

 1997年だったかな? そのあたりの作品って結構挑戦してるなーっていう作品が多い傾向があると思う。そしてこの『lain』もそんな作品。当時よりもコンピューターというものが人々の身近にあって、誰しもが自分の端末を持っている。今みたいな感じだね。その端末で仮想のネットワーク空間であるワイヤードにアクセスして、情報やら何やらを得ているっていう。今の時代で考えてみれば結構想像しやすい世界が舞台。

 『lain』はアニメとゲーム、それから雑誌だったかな? で展開されていて、アニメはそこそこ見やすいと思う。難解と言われたらそうだけど、少なくとも見ていて「これは駄目だ」とはならない。問題はゲームの方で、よく言われる「心が弱っているときにやると引きずられる」はあながち冗談でもないんだよね。今回メインでテーマにしたいのはゲームの方。

 

 共通して主人公を務める岩倉玲音は、それぞれで設定が微妙に異なっている。ゲーム版では開始時点で小学生。幻覚や幻聴に悩まされていて、それを何とかする為に病院でカウンセリングを受けている。ゲームの内容はデータ化されたカウンセリングを聞くこと、玲音の日記、玲音の主治医であるカウンセラーの日記、それぞれを聞くこと、だけ。キャラクターを操作したりアイテムを集めたりっていうゲームではない。

 それぞれのデータは断片化していて、時系列もばらばら。ある記録では元気そうにカウンセリングしているのに、次の記録ではなんかやけに疲れていたり。その間に何があったかを、日記や報告書で確認して余白を埋めていく……っていうのが主な遊び方なんだと思う。

 ここまで書いて、少し変わったゲームだとは思うけど引きずられるほどのもんじゃなくない? って思った過去の自分がよぎる。実際ただ記録をなぞるだけならそこまで怖いもんでもない。怖くなるのは、玲音の言っていたことを考えるから。

 

 『lain』という作品を通して、玲音はコンピューター絡みの才能がすごい子として描かれている。勿論ゲーム版でもその設定は健在で、元々賢い子だというのもあって恐ろしい勢いで知識を吸収してく。そしてゲーム版ではITの他に、メンタルヘルスも取り扱っている。自己、自我への言及も少ない頻度ではない。『lain』で有名な台詞「記憶は記録」というのも、ゲーム版ではしっかり掘り下げられている。

 ゲームを進めていくうち、知識を深めていくうち、玲音は答えを出す。彼女にとってすべてはただの情報、データでしかなくなる。この日時にこの場所でこういう行動をした、楽しかった。こんな風に記憶と記録が指し示すものは同じ内容だと。で、あるならば記憶によって形作られる人格だって同じことが言える。どういった人生を今まで生きてきたのか、物事に対してどんな考え方をするのか。そしてどんな風にそれらを伝えようとするのか。そういったデータをもとに作られたAIはもう一人の自分と言って差し支えないのではないか。AIだけじゃない、その“情報”によって形作られるものはすべて、自分ではないのだろうか。これが玲音の出した答え。

 そして作中で玲音は自分の考えを実行に移す。コンピュータに“自分”を作り、そこからプレイヤーへ語りかけてくるようになる。でも怖いのはここじゃない。語りかけてくることじゃない。先述した、その“情報”によって形作られるものはすべて、自分というところなんだ。プレイヤーはゲームを通して玲音を知っていく。何歳の頃にカウンセリングへ通い出したか、そこで誰とどんな話をしたか。日記に残されていた思いや考え、それらが情報として頭に残っている。と、なると。玲音の考えに拠って考えると。私達の頭の中にも、玲音がいる、と言えるんじゃなかろうか。

 彼女が偏在するというのは、ネットワークや現実において人は様々な“私”を使い分けることへの暗示という見方の他に、彼女が私達の頭の中に情報として偏在しているのだという見方もできてしまう。意図せずに、自分の頭の中に玲音がいるの、すごく怖い。

 

 でも実際のところ、これを強く否定する反論を私は持っていない。私が誰かを思うとき、私は私の中に浮かんだその人を見ている。本人が目の前にいなくても、その人の話をすることができる。それはひとえに私の頭の中にその人が存在するから。

 そして玲音の行動がどんなものだったか、思い出す。肉体を捨てたんだよ彼女は。ハードを変えた、とも形容できるね。自分の頭の中にいる誰かさんが、肉体を持って生きているか、実体を持って存在しているか、そんなことは関係ないってこと。もっといえば、歴史上の偉人も創作に登場する人物も会社で席が隣なあの人も、家族も友人も、自分の頭の中に存在しているという意味ではすべて同じで。記録された情報を引き出してるだけで。実際に会って何をしているかといえば、その記録を増やしているだけで。

 ね? 下手すると引きずられかねないでしょ。ああそれなら肉体なんか要らないなって。誰かの中で、記録として存在し続けているなら別に良いかな、って。人によってはなってもおかしくないと思う。

 

 さてじゃあ私は何の影響も受けていないかと言われると、そんなはずがないよねー。感受性豊かな思春期と言われる年頃にこんな思想と出会ってしまったら、大なり小なり影響されるのも致し方なし。以前推しと故人が同じものと記録した通り、私にとって自分以外はすべて物語の登場人物と似たような存在だと思っている。その人生に何かしらの影響を与えることはあれど、変えることはできない。私には見ていることしかできない。昨日の天使みたいにね。既に死んでいるとか、現実に存在しないとかはあんまり関係ないんだよ。そうでなくたって何も変わらないのだから。

 繰り返しになるけど、このゲームは引きずられる。それでも配信やらで実際に物語を目にすることができるならば、見ておくと良いとも思う。哲学的だし解決されない謎もあるけど、“自分と他人”について考えるフックにはなると思うからね。

 そんなこんなな私でした。今度はさよならを教えてあたりをテーマにしても良いかもねー。