ぼやきの場所

使ってるSNSでは気後れする長さの文章置き場。

今年の汚れは今年のうちに

 汚れと形容するのは何か違う気がしなくもないけど、年を越す前にどうしてもやりたかったことがあったので今日はそれをこなしてきた。

 

 そう、縁切りである。

 

 前々から考えてはいたけど実行はしていなかった縁切り祈願に行ってきました。某赤坂にあるつよつよスポットへ。

 別に人間関係で悩んでいたりはしていない。縁を切りたいのは人じゃなくて、持病と自分の人生における退屈や失望といった生きる気力を搾り取っていくあれそれ。人を呪わば穴二つ、こういう願いにおいて自分以外の存在を含むとろくなことにならない気がするしあながち間違ってもいないと思う。

 年始は初詣で混むのが目に見えてるし、年の瀬ぎりぎりだったらそこまで人はいないのでは? とか思ってたけど認識不足であった……普通に参拝されてる方沢山いらっしゃった。あれかな、逆に暮れのご挨拶的なやつだったんかな。よくわからない。

 

 こうやって実行までしておいて何だけど、実はぼくこういった類のもの信じてないんですよね。そんな簡単に物事が良い方向へいくわけがないじゃないですかって思うタイプ。じゃ何で行ったんだよと言われると、答えは単純。縋るものが欲しかった。

 正直に白状すると、ぼくは自分の人生に絶望している。多分生きてて良かったと心の底から思えることは今後ないだろうし、まあ悪くないんじゃないかとかぼちぼちだったとかすら思えないだろう。ぼくの人生はこんなはずじゃなかったと、少しくらい報われたって良いじゃないかの連続である。そんな感じだから、自分の人生において支えとなるだけの何かがないのだ。

 縋れるものが欲しい。だけど辺りを探しても期待できるものがない。そんなとき思いついたのがこれだった。成就するとは思えないけど、好転するかもしれないという希望を持つことはできる。確定していない万が一を自分の中に作り出せる。ぼくにとってはそれだけで十分で。不信心とまではいかないけれど、丸投げできるほど盲目にもなれない。今まで生きてきてどうにもならなかったことだから、どうにかなるとは思えないけど、何とかなるなら何とかしてほしい。それが本音。

 

 だけど久しぶりにのんびりと何も考えず行動できたから良い気分転換になったような気はする。それだけでもお参りに行った意味はあった。

 あの場所の空気はとても好きだなと思った。色々な人が色々な気持ちで参拝に来ていて、それぞれがそれぞれの重さで何かを願っている。それは叶うかもしれないし、叶わないかもしれないし、もしかしたら忘れられてしまうのかもしれない。でも確かにあそこは沢山の願いが集まる場所なんだなーなんて。

 

 また時間を見つけてお参りに行こうと思う。今度はきちんと下調べしたうえで、きちんと、ね。